jusyoshiのブログ

社会人2年目、フィールドワーカー(自称)6年目の日記です。

世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドを読んで感じること

①全ては数学でできている

ビートたけしが「全ての事象は数学で表せる」というような発言をしたとかしなかったとかされる言葉。よく覚えていないが、記憶にある。

「世界の…」の物語に、爪楊枝に百科事典の内容を全て書き記すことができる、ということが博士の発言にあった。要は、百科事典に書かれている項目を数字化し、(0.03561827…といった具合に)その座標を爪楊枝に記せばよいのだ。 

そして、思念=数字=ソフト、時間=爪楊枝=ハード、とすれば、人がたとえ死を迎えたとしても、生きてきたまでの思念は「その瞬間」という座標に記され続ける(飛んでいる矢は止まっているという言葉の通り)。

そしてハードは爪楊枝でなくても良い。輪でも、球でも、無限に膨張を続ける宇宙でも良い。もっと言えば、肉体も感覚も、脳が作り出す信号に過ぎない(これはマトリックスの世界でも言ってる)。現実世界など、脳が認知してアウトプットしたただの信号なのだ。

ビートたけしの言葉がようやくわかった。

思念は残る。…てことは、お化けはいる!?

 

追記:数字が全てを表せる。決算書を見れば、どのように収益を上げ、どれほどの資金がどのような形で手元にあるか(あるいはないか)が分かる。野球も同じ。どのように点数が入り、どのようなミスが何回あり、どのような点差で勝敗が決まったか。全ての結果は数字で表される。上司が「わしは資料、報告書をみれば、全てを理解できる」と言っていたことが分かる気がしてきた。どれほど努力したかは記録し難い。が、結果として表れる。数字として。何点で簿記を合格したかとか、英語が堪能というのはTOEICでは800点以上のレベル、とか、世の中すべての事象は、一般的に認知できるように、数字で表すことができるのだ。そして、我々は数字で表すために日々、努力をしなければならない。例え、誰も見ていないとしても。

 

②「私」と私の物語(=人生)との関係

高校時代から大学1年まで、私は私の身の回りに起きる現実世界を、手荒に扱っていた。目に映る全てのモノ、ヒト、気に入らなければ不機嫌だった。しかし、やったことは返ってくる。これは、きっと「私」と私の物語との関係だからだろう。やられたらやり返す、みたいな。物語は、私にいろいろなモノを提供してくれる。当然、嬉しいこと、哀しいこと、絶望、歓喜、いろんな出来事に溢れた物語。これからは、なぜ、これを届けてくれたのかを考えるようにする。なぜ、この人と出会い、なぜ、このような言葉をかけられ、なぜ、一緒にいるのか、とか。なぜ、ここで働き、なぜ、このような経験をし、なぜ、一所懸命になれるのか、とか。すぐに意味は理解できないと思うが、それが、提供者である物語への最大のリスペクトであり、物語の要求事項に応えることで、彼も喜んでくれるに違いない。

 

③高校時代の闇体験は何を意味する?

落ち着いて、瞑想でもして考えよう。

 

④宗教って何?

悟りとか、救い、っていうのは「無心」になること?

悲しいとか、嬉しいとか、煩悩(エロ)とか、懐かしいとか、感動とか、人間としての感覚、感情を根こそぎなくすことが「無心」になること?

それが、世界中にある数多くの宗教が目指す目的なら、つまらんことに向かってるなーと思ってしまう。

宗教社会学を専攻してきて、初めてそう思った。

 

 

⑤反応について

嫌味とか、きついことを言われて凹んだり、ムカついたりする。嬉しいこと言われたり、好きとか言われたりすると、すごく喜ぶ。

これは、他者からの言葉という信号を認知して、「自分」が反応してる。

自分が相手に何かを伝えると、相手が反応してくれる。その相手の反応をまた自分が認知して、「自分」が反応する。

インプットだけではだめだ。アウトプットで反復練習をし相手に確実に伝わるようにしなければいけない(会社の同期がした「研修ですべてをインプットさえすれば容易に転職できる」という発言がいかに稚拙か)。

女の子をナンパするのもアウトプットという反復練習が大事。営業活動もそう。相手に対してアウトプットを提供し、相手の反応を、また自分に反応させ、学習していく。インプットとアウトプット、そしてイン/アウトを素早く、効率よく行えるブラックボックスと、そのなかで行われる思考こそが大事。